昭和41年02月07日 夜の御理解
ご理解第60節「おかげは受け徳、受け勝ち」とおっしゃる。ご理解60節に、「おかげは受け徳、受け勝ち」と。皆さんどういうような響きで、それが感じられるでしょうか。なにか「受け徳、受け勝ち」とこう(言う?)。なにかもう、まあ頂かん分が損と。もちろん頂かんもんが損でございますけれども、なにかわれがちにこう、こうそこにあるものを、ちょっと持って帰って来るといったような感じがするのですけれども、ここのところを、あの、ようく頂かにゃいかんと思うですね。
教祖の神様の、このご理解とか御教えというものは、ほんとにその深いのです。平凡な言葉で表現しておられますから、それを間違えると、もう大変なことになります。「おかげは受け徳、受け逃げ」という(笑)受け逃げという意味じゃないのです。おかげを受けて逃げてしまうというような人がありますよね、中には。そういう響きがないじゃないですね。頂きようでは。「おかげは受け徳、受け勝ち」とこうおっしゃる。
ですから、どういうような、この、心の状態にならせて頂いたらです。じゃどういうおかげを受け徳、受け勝ちにしたらよいかと。もちろん、そこには私はその、ご理解60節の前の段に、ご理解の59節ですね。その一節に、「おかげを受けてくれれば、神も喜び、金光大神も喜び、氏子もの喜びじゃ」とおっしゃっておられます。ね。私は、そういうような、このおかげでなからなければならないと思うんです。神も喜び、おかげを受けて、氏子がおかげを受けてくれれば、ね、
神も喜び、金光大神も喜び、氏子もの喜びじゃと。3者が1つになって、喜び合えれるような、「よかったなあ、おかげを受けて」と神様が言うて下さり、金光大神もまた、お取次のし甲斐があったというて、喜んで下さる。ほんとにお取次を願わして頂きましたら、神様からこのような広大なおかげを頂きまして、有り難うございますというものになってこなければいけない。ね。
ところが、「おかげは受け徳、受け勝ち」というような、もう自分だけがおかげを受けて、受け逃げするいったような感じで、その受けたら、これは大変だと思うんですね。「おかげは受け徳、受け勝ち」。ね。それをなら、受け徳、受け勝ちにすることは有り難いのですけども、それが、ならその59節にあります、一節にありますように、氏子がおかげを受けてくれるということです。
「神も喜び、金光大神も喜び、氏子もの喜びじゃ」というその一連したですね、喜びにつながっておる喜びじゃなからにゃならん。そこで私どもがです、実意丁寧神信心ということになるのですよ。ね。お道の信心のこの神髄というのは、実意丁寧神信心と言われておる。実意丁寧神信心をもって受けたおかげ、ならそういうこちらが状態にならしてもらう時に、そういうものがほんとなものになる時、神様は、いわば願わんおかげまでもおかげを下さる。ね。
あれもおかげ、これもおかげと思うようにおかげを下さる。ほんとに「おかげは受け徳受け勝ち」である。もったいない。もったいないと言うて頂くようなおかげ。そういうおかげをです、金光大神は喜んで下さるのであり、天地の親神様が喜んでくださるのであり、また私どもも限りなく喜べるのである。喜びが喜びをまた生んでいくような喜びになったくるのある。ね。
実意丁寧神信心。ね。四代現教主金光様がおっしゃっておられますように「実意をこめてすべてを大切に」実意をこめてすべてを大切にし、そういう神ながらな神様の教えがそのまま私どもの生活の上に現れてくるような日常生活にならせて頂いて、そこから頂けるところのおかげ。ね。そういうおかげを皆さん、願いまた頂かしてもらう。またそういうあり方にならして頂くことに精進しなければいけないと思うんですね。
ただ今、ご祈念につからせて頂く2、30分前でした。久富さん、久富繁雄さんですね。今日はあの、息子さんの国雄さんが、あちらのご造営の当番だったんです。ですから、午前中は息子さんが出て来ておりました。ところが、息子さんに用ができたから、ならお父さんがその代わりにまた、今日は出ておられます。そして、まあ引き続いて私に、ま、いろんな御用をされておりましたから、まあ今晩のご祈念に引き続いてなられたわけなんです。で、こういうようなことなんかもですね、
すべてを大切にしておられる、私一つにの印だと思うですね。もう大概な者がです、例えば、なら今日3人が3人の人が当番になっとるけれども、出て来ておるのは、その久富さんと文男先生と2人ですから、誰か一人来ておらないことになるんですよ。ね、来ておらないからって誰も責めもしないのです。ね。それがその義務というわけでもなからなければ、しゃっちというわけでもないのですから。
また、忙しきことがあれば、誰かと代わってもらってもいいというように、ちゃんとそのどんなんでもできるようになっておるのですから。だから、いわば半日もで、半日でできておるならば、「今日はこんなわけでございますから」というて、もうそのままでもいいのですよ。けども、また代わりに、その息子の代わりにお父さんが出て来ておられるということ。このへんのことは、私は、このすべてを実意丁寧に大切にしておられる印だと、こう思うのですね。
それから今、あのう、ご祈念にかかる前にお届けがあったんです。「明日、先生あの、畳替えを大和さんにして頂きたいと思いますから、ここから電話を拝借して、大和さんの所に、そのことをお願いしたいと思いますから」て。「なら早う、ご祈念前に電話をかけておいで」と言うてから、かけたお出でられました。で、降りて来られたから、どんなふうだったかと私が申しましたわけなんです。ね。
勿論あの大和さんも皆さんのご承知のように、ここで熱心なそれこそ実意丁寧な信心をしておる方なんです。前々から相談がしてあったらしい「ならお宅のご都合のよか時、いつでもしてあげましょう」ということになっておった。それで明日が都合がよいから明日させて頂くというので、その今日電話をかけられたんです。ところがあの大和さんが、明日都合のあんなさるごたるもようで御座いますけんで、明後日にしましたち。
(ああそら段取り?)が困ろうもんと言うたら「いえ、そんなことはありません。もう父が休んどるとこだけ、他んとこは皆はぐってから干しておりましたけれども、父が休んどるとこだけは畳はぐっとらんからとこう言われる。あらあんたがたへんな畳替えする時に、そげん畳ばいっちょいっちょお掃除するのじゃ。ああやっぱ汚か畳も色々いろうて頂くのですから干しもしておきたい、またお掃除もしておきたい。私それを聞かせて頂いて思うですねえ。実意丁寧とはそう言う様な事だと思うんですよ。ね。
ある人が聞いたことがあります。ね。昔はあのおきなわがえっていうのが歩きよりましたですね。(おきなわがえ?)さんがですね、ちゃーんとその(おがいさん?)をその回りますとですね、わがいさんが来たなら、これから飲まんならんというもんな、きれいに洗い上げてから、その来てもらうようにしてあるようです。ところが、ろくそなことがですね、「(おきやさん?)、(んの?)いっちょ(うわばいいっちょ入れて?)くれのう」て言うてから、もうあの、何ち言うですか、肥えを担ぐの。
あっ肥えたご。肥えたごのまだ紙のついたごとあっとば、出してきなさっところがあるというて、私どん聞いたことがありますよ。ほんとやっぱろくそな所は、そげんとこがあろうと思うです。こげな汚かもんですね、扱わせるのだから。それこそ、洗い上げた上にも洗い上げてから、お願いしますとこういくのが、私は実意丁寧だと、当たり前だと、それが。けども、畳ば掃除してから明日畳屋さんにお願いするというのは、私は今日初めて聞きました。私がろくそなか証拠です。
ほんっとに私どもは、そういう行き届いたことができてなかったて、今まで。ねえ。そして、んならあした大和さんはなにごつげなち私が言うたら、いえそれが明日はあの、ご造営のほうの当番に当たっておられるそうですからと聞かせて頂いてです、ほんっとに実意の人達は違うなあ、おかげを受ける人は違うなあと思うです。例えば、久富さんところから明日になしてくれと言や、なら私は出番になっとるばってん、明日誰か代わっ普通です。大和さんの実意と言いです、ね、
久富さんのその実意な頂き方といいです、もう私はほとほと、なるほど、実意丁寧神信心とはこういうようなことだと、こう私は思う、今晩は思うた。皆さんどうでしょうか。ね。ご造営の当番と言や、もうほんとに、もうやがて10ヵ月なんなんとしたから続いておるのでございます。しかも、何日か置きにか、なら3人、4人の方たちが出ておるので御座います。それをです、例えばほんなら、半日でもご無礼してはならんと、息子の代わりに親が出るとか。
例えば、お仕事の注文があれば、明日は私は、ご造営の現場の担当になっておるから、明日は出来ませんから、明後日してあげましょう。はな、それでもよいです、とこういう大和さんの実意です。これは誰に見せようとも、聞かせようともないのだけれども、例えば、そういうような話の、端々の中からです、なるほど、椛目で信心のけいこをさして頂いておる人達がです、だんだん実意のなっていかれておる、これがいよいよ、ほんとなものになった時です。ね。
それが、いよいよ本当なものになった時です、おかげが、頂けてくるところのおかげ、そういうおかげをです、「受け徳、受け勝ち」というような、おかげになった時です。お前が、信心のけいこをさして頂くようになったら、そのような実意丁寧なあり方にもならして頂いて、それが、いよいよ本当なものになって、そして、おかげを受け漏らさんおかげの、受け物を作らして頂くということがです、取りも直さず、そのまま、天地の親神様の喜びでもありゃ、金光大神も喜び、氏子もの喜びじゃ、というようなことになるのじゃないでしょうか。ね。
「おかげは受け徳受け勝ち」て。なんとしらんけれども受けたらもう逃げたっちよかといったような感じで、ほんとに簡潔な言葉をもって表現しておられますからです、それはよくよく頂かなければ。そしてその第60節のそのご理解からです65節の例えば一章をです、その一部を読まして頂いただけでも、こういうあり方こういうおかげ。こういうおかげをこそ受け徳、受け勝ちというようなおかげになるのじゃないかと。
もう、おかげを受けて、受け徳になる。おかげを受けて、そのまま徳になる。そういうおかげでなからなきゃならない。ね。それが喜び、また、喜びの次のおかげの準備をしていくようなもの。ね。もう一つ、まあだ「おかげは受け徳、受け勝ち」という、そのおかげの受け方というのがです、他にもございましょうけれども、結論いたしますと、問題はやはり、神様も喜んで下さり、金光様も喜んで下さる、私どもも喜べれれるところの、そういう三者一体、喜びれるところのおかげ。
どうでしょうか。私がお願いをしておかげを頂いた。「はあ、もうおかげ頂いて、有り難うございます」と言いよるが、果たして金光様が喜んで下さるようなおかげになっておるだろうか。天地の親神様が喜んで下さるようなおかげになっておるだろうか、というふうに、あれにはああいうようなおかげをやったのに、ね、例えて言うなら、ない命を下さったのに、その命を粗末に使いよんなら、神様は、「もう、あげなやつにやらんほうがよかった」ちいうことになるかもしれません。
もう金、金て言うけん金のお繰り合わせをして、ちゃんとおかげをやらして頂いたら、そのお金が悪銭になり、それがお粗末ご無礼なために行使されるようなことになったら、「もう、あれにはやらにゃよかった」と言うて、神様の喜びの段じゃない、やってしもうたと神様がまあ、思いなさることでもなかろうけれど、ね、人間の私のその考えで分かるよう、いうなら、そういうようなことにもなりかねないのです。ね。
ある方が息子さんの肺病で、もういよいよ助からん。粟粒結核で医者も見離ような病人だった。ここに一心にお参りをさせて頂いた。おかげを頂いた。本人も、「このご恩な忘れません」と言うて、男泣きに、まだ青年でしたけど、まだ10代でしたけれども、男泣きに泣いてからお礼に出て来た。お母さんも、「おかげ頂いた」と喜んだ。なるほど、それまでには、一心の信心をして一生懸命おすがりをさして頂いた。
ところが、2年経ち、3年経ちする時に、その息子さんが不良の仲間に入るごつした。そしてから、それこそとんでもない失敗をしでかした。ね。友達を話しよってから、近所ん牛を引っ張ってきた。・・を盗んできた。もういよいよ警察問題になってしまった。それでもやっぱ親ですたい、なんとかかんとかそのお願いして、おかげを頂いたんですけど、そん時の親の言うごとです。「先生、あん時にあげん無理言うて、お願いせなよかった」ち。「もうあん時死んどったほうがよっぽどようございました」ち。もうそれを聞かれた神様が、どげな嘆きをなさるだろうかと、私は思うです。ね。
もちろん、それから懇々と、「そげな言うなら、おかげばやりなさった神様、あんたがっかりしなさるよ」ち。「そげなこと言わずに、あの時ですら助けて下さった神様なのだから」。ね。「今度も助けて下さらんはずがあるもんかい。願いなさい」。それから、信心が疎かになって、まあご無礼になって、最近またお参りして来ておられますけれどもです、最近ではその息子さんも非常におかげを頂いて、まあ親孝行してくれよりますて言うて、この頃言うておられますけれどもです、ね、例えば、一時でもそういうようなことのおかげではいかんでしょうが、皆さん。
頂いたおかげで、ね、( ? )ましたおかげで、かえってあん時にもう助けてもらわんほうがよかったちゅうごたるおかげでは。ね。どうぞ一つ、「おかげは受け徳 受け勝ち」というようなのが、いついつまでも喜ばれる。いついつまでも、あの時にやったおかげをいつまでも忘れず、実意丁寧な信心に氏子がなってくれるというようなおかげであって、はじめてです、「神も喜び、金光大神も喜び、氏子もの喜び」というようなおかげに、を頂いてこそ、私は本当のおかげではなかろうかというふうに思うのですよ。そういうおかげを願わないかんですね。
どうぞ。